清水七夕まつりの歴史

清水七夕まつりのはじまり

現在のような形での「清水七夕まつり」は昭和28年に第1回が開催されました。
それまでは写真に見られるように、各地域の商店街が各々の七夕飾りを店頭に飾る小規模のまつりが市内各地で行なわれてきましたが、「清水みなとまつり」に並ぶ、東海地区の名物にしようと、「清水市商店街連盟」(現:清水商店街連盟)の旗振りのもと、七夕飾りコンテストなどのイベント性豊かな、現在のような形態のまつりとしてスタートしたのです。

大正時代の江尻七夕まつり

「第一回清水七夕まつり」では、「清水銀座商店街」「清水駅前銀座商店街」「東海通り商店街(現江尻東1丁目・2丁目界隈)」や袖師・相生町などの商店街を含め約2,000店がまつりに参加し、全国でも有数の規模のまつりとして大成功を収めました。
この成功により、「清水七夕まつり」は、清水の夏を告げる三大まつり(七夕まつり・灯ろうまつり・清水みなとまつり)のひとつとして清水の街に定着しました。

昭和30年代から昭和50年代

昭和30年代からの「高度成長期」になると、清水七夕まつりは「清水銀座商店街」「清水駅前銀座商店街」を中心にますます盛大に開催されるようになり、花火大会やミス七夕コンテストなどを同時に開催するようになりました。
その頃から、七夕飾りはくす玉飾り(丸い玉に吹き流しが付いたもの)中心の飾りから、時代風俗や流行を模した「仕掛け花飾り」が多くを占めるようにり、見るものをアッと驚かせる飾りを作るため、各商店で創意工夫を凝らし、清水七夕まつりは隆盛を極めました。

昭和49年 七夕豪雨

7月7日というのは、清水にとって因縁深い日でもあります。
60年以上の昔、昭和20年7月7日、清水は米軍の空襲に合い多くの人の命が失われ、街は灰燼に帰しました。
そして、昭和49年7月7日。七夕の日に降り出した雨は8日の朝までで総雨量500mmを超える豪雨となり、巴川とその流域では大洪水となりました。
清水銀座・駅前銀座ともに被害を免れることは出来ず、この年の七夕まつりは会期途中にて中止になりました。
清水にとって、このように忌まわしい記憶を内包する7月7日ですが、この日をはさんで行われる「清水七夕まつり」は、単なる「笹の葉さらさら…」の星まつりとしての七夕まつりだけでなく、7月7日に犠牲になった方々に対する「盂蘭盆会」的な意味合いも含んでいるのかもしれません。

昭和から平成、そして令和へ

時代を移すにつれ、「清水七夕まつり」は、昔の勢いを失いつつあることは否定できません。多くの商店街と同様に、中心市街地の人口空洞化・消費生活の多様化・生活スタイルの変化などにより、苦戦を強いられているのが実情です。

約70年続いてきた「清水七夕まつり」の灯を消さぬよう、時代に即した新たな形の七夕まつりへの発展を目指します。

清水七夕まつり実行委員会では、みなさまがお持ちの「清水七夕まつり」の古い写真・8mmフィルム・ビデオ等を募集しております。それらの資料は、このホームページで利用させていただいたり、今後の「清水七夕まつり」で展示させていただいたりする予定でおります。古い写真などの画像資料をお持ちの方がいらっしゃいましたら、こちらのリンクからご連絡くださいますようお願い申し上げます。