七夕まつりの歴史と各地のまつり
      ・七夕の歴史と由来
清水七夕まつり実行委員会ブログに移動します。 会場周辺の交通規制の案内ページに移動します。 七夕まつりの古い写真を探しています。こちらのページからご確認ください。
清水巴川とうろうまつりのページへ移動します。

〈七夕とは・・・〉

  皆さんは「七夕」といえば「牛飼いの牽牛」と「働き者の織女」が年に一度七夕の日にだけ会えるというお話を思い浮かべると思います。
  この織女と牽牛のロマンスは6世紀ごろの中国での風俗を記した「荊楚歳時記」が伝えるストーリーが原型だと言われています。
  古来から、中国では、7月7日に魔除けの行事を行う風習がありました。
この風習に、農業にまつわる星である牽牛座(鷲座のアルタイル)と養蚕や糸・針の仕事を司る星である織女座(こと座のベガ)への信仰が結びつき、陰暦の7月7日に、機織り(はたおり)の上達だけではなく、裁縫などの手芸一般から、詩歌管弦など幅広い技芸の上達を祈る行事に発展したとされています。
 
 

この行事を「乞巧奠(きっこうでん・きこうでん)」と言い、日本には平安時代頃に伝わり、宮中行事のひとつとして行われるようになりました。

  日本においては、この乞巧奠は長い間宮中内の催しとして執り行われており、現在でも藤原俊成、定家の末裔で、和歌の家として続く京都の冷泉家では旧暦の7月7日の夜、乞巧奠が催されています。
 
 
 
  冷泉家の乞巧奠では「星の座」という祭壇が設けられ、「瓜・茄子・桃・梨・空の杯・大角豆・蘭花豆・蒸しアワビ・鯛」がそれぞれの皿に盛られて並びます。
いずれも二組そろえられ、それぞれが、牽牛(彦星)と織女(織姫)への供え物となります。
 

〈日本での七夕まつりの伝播〉

  星まつりとしての「乞巧奠」は長らく宮中内の行事として行われており、広く庶民に星まつりが定着したのは、江戸時代の中ごろだといわれています。
江戸幕府が制定した「五節供」(正月七日・人日、三月三日・上巳、五月五日・端午、七月七日・七夕、九月九日・重陽)が、生活の節目を祝う行事として広まり、7月7日は五色の短冊に願い事や詩歌を書いて笹に結び、瓜・茄子・スイカ・キュウリなどを供えて牽牛(彦星)と織女(織姫)をおまつりする、現在一般的な「七夕まつり」が形作られました。
(七夕にお供え物をする風習は最近見受けられなくなってきましたが、地方によってはこの風習が多く残っています。)
 

〈七夕と書いて「たなばた」というのは何故でしょうか〉

  古代においては、水辺に神の嫁となる処女(棚機つ女・タナバタツメ)が神を祭って一夜を過ごし、翌日七夕送りをして穢を神に持ち去ってもらうという祓えの行事がありました。 また、7月は稲の開花期でもあり、また、暑さの盛りを迎える季節でもあり、農作にとっては秋の実りを目の前にした大切な時期となります。
水害や日照り・疫病などの自然に対して昔の人は恐れ敬い、その厄を払う行事も古来から行われてきました。
加えて、夏に大地から採られた収穫祭も行われてきました。
  やがて、仏教が伝来すると、これらの行事・祭事は「盆・7月15日」の準備をする行事としての意味合いを含むようになりました。
  平安期に「乞巧奠」が伝わると、これらの神事的・宗教的・土着的な行事は、牽牛と織女をまつる星まつりと融合し、7月7日の夜に、星に対して芸事の上達(機織などの技術)を祈る、現在のような形の祭事として日本に定着しました。
  もとは、7月7日の夕方をさして、「七夕(しちせき)」と呼んでいたのですが、日本人になじみが深く、古くからの風習にちなんだ「棚機つ女・タナバタツメ」の古事から「七夕(たなばた)」と呼ぶようになったという説もあります。
  一口に「七夕まつり」と言っても、清水七夕まつりのようなイベント性の高いものから、宗教儀礼に近いもの、さらに、農耕儀礼的(土着的)なものまで、日本各地にはさまざまな七夕まつりが残っています。
  第二章の「日本各地の七夕まつり」ではざまざまな日本各地の七夕まつりと、今では見られなくなってきた静岡での七夕の風習を紹介します。
 
清水七夕まつり実行委員会では、みなさまがお持ちの「清水七夕まつり」の古い写真・8mmフィルム・ビデオ等を募集しております。
それらの資料は、このホームページで利用させていただいたり、今後の「清水七夕まつり」で
展示させていただいたりする予定でおります。
古い写真などの画像資料をお持ちの方がいらっしゃいましたら、こちらのリンクからご連絡くださいますようお願い申し上げます。